叡智と知識

世の中にはたくさん勉強されて、素晴らしい知識をお持ちの方がたくさんいます。

知識と叡智は似て非なるものだと思いますが、混同されている方も多いのかもしれません。

しかしながら、知識が積み重なってくると、先天的な頭の良さ…所謂天才などに近くなることを、多分誰もが潜在的にわかっているので、子に勉強しろとうるさい親がいたり、ストイックに自分を追い込んで勉強を続けたりする人がいるのではないかとも思います。目的は個の生きる力なのか、支配なのか、虚栄なのかは別として。

結果、日本のような国は義務教育が充実していて識字率もほぼ100%だと思われますが、ニンゲン特有のこの豊富な知識の使い道を、種の存続からかけ離れた方向に使ってしまったならそれは叡智とは言えないでしょうね。

目先の浅い一過性の思考による問題解決と、長期的にみた問題解決では子となっています。目先のことしか見ない視点で善かれと思っていることが、結果的に子孫にとっては負の遺産になったりすることがあるでしょう。

だからこそ、せっかく勉強したその知識を金儲けのためではなく、社会のために無駄なく使いたいものです。その先に経済がまわってくるという構図が一番自然なものなのではないかと思います。

 

科学とは明日変わるかもしれない不確かなもの

 

ですし

 

着目しないと誰も気づかない

 

というような危うさがニンゲンの知識にはあるので、知識を積み上げた人が必ずしも頭が良いわけではありません。

 

わからないことはわからなくていい

 

ということが世の中にはたくさんあって、例えば、食うためではなく人間に殺されていく実験動物達などには懺悔してもしきれません。

薬剤や化粧品など、あってもなくても良いもののために、所謂誰かの金銭目的のために、閉じ込められ毒を塗りたくられる彼らにも申し訳なく、高価だという理由で胆汁をとられる中国の熊たちや、柔らかい肉にするため去勢され、10年生きる命を半年で殺されていく豚などにも懺悔のしようもありません。一定数の食物連鎖上の殺戮ならまだしも、人間のそのような活動の裏にはいつも「過ぎた欲」が在りますね。

 

人間が本当に賢い動物なら、知識は平和のためや子孫の繁栄のために使うものなのではないかと思います。

消費者心理を読んで、マーケティングなどと銘打って知識を使ったり、外見を美しく誤魔化すためや虚栄のために使うものでもなく、もっと未来を見据えた拡い視野で物事を視ることができるのが本来の知識なのだと思います。

昔に比べ、学歴や肩書だけで、人が人を信頼しなくなったのは、インターネット等で僅かばかり目にする本質的な考察であったり、若者の視点であったりするのかもしれません。

老化と共に大切なことを忘れてしまう大人も多く、若者や子どもの意見に耳を傾けることは、時には勉強などより大切だったりする場合もあります。

本能で教えられたことは、私達には必要なことで、偏った知識で教えることは偏見とも言いかえることができるのではないかと思います。

猫も杓子も勉強ができる私達日本人だからこそ、知識を浅い思考でなく、深く平和的な方向に活用していけば、この皆の憂いた顔は笑顔になるのではないかと思うのです。

そのためにまず大人たちは、せめて自己をコントロールすること。

自分の心地よい世界を自分が創造すること。家族や周りを平和にすること。助け合うこと。そんな連鎖が起きれば「あり余る富」よりも素晴らしいものが手に入れられる気がします。

行動すれば必要なものは残り、必要ないものは淘汰されるでしょう。

好奇心から下手に人間に必要のない知識を追い求めないことも、負の遺産を遺さない一つの方法なのかもしれませんね。

地球が、何を遺していくのか見てみたいものですね。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

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