思考は現実化するという、ある意味当たり前のことを自分だけでなく他人のことも含め、一時期検証ばかりしていた気がします。
大会で優勝するアスリートなどは、実際には自分の思い通りになるという事を信じるために、練習と称して自身を納得させ続けるのだと話していました。
また、練習をする時間がなく、優勝する自分や光景を繰り返しイメージすることをひたすら毎日続け、実際にそうなったという人からも話を聴いたことがあります。
願望と直感は少し違います。
願望はメリットのようなものです。
直感は、それが嬉しい事であっても哀しい事であっても、瞬時に脳がたたき出す自分の正解とでもいうべきものです。
繰り返し見る夢や、繰り返し現れるイメージは、多分鼠が火事の前に逃げたり、鳩が地震の前に飛び立ったりするあれと同じでしょう。
これが現実になる不思議さは、ある種の畏怖のような想いがあり、地球が組み込んだ生物の仕組みにひれ伏すしかない感覚です。
意味が分からず説明もできないのですが、ずっと後になって「ああそうだったのか」と腑に落ちる瞬間、何かに導かれているような気がするのは、きっと私だけではないでしょう。
私たち自身も、自分では腸内細菌をコントロールしたり、皮膚常在菌を増やしたり、または剥がれ落ちる角質を止めたりはできません。
皮膚細胞は剥がれ落ちる周期があり、胃の粘膜も死ぬ周期があって、教えなくても勝手にやってのけています。
ハムスターは11匹は、教えなくてもひとりでにヒマワリの殻の剥き方を知っていましたし、赤ん坊のころから回し車で走っていました。
毛づくろいや衛生管理も教えなくてもします。
リチャードソンジリスもウサギもモルモットも鳥も猫も。
冷静になって考えてみれば、そういった不思議なことは、自分が生きてきた今までの時間だけでも膨大な数になるはずです。
科学的な実験などしなくてもわかっていることが生物それぞれに在るでしょう。
私が興味をもつのは、どちらかと言えばその地球的な流れであり、地球の一部としての細胞のような自分や他の人間、動植物、細菌に至るまでの大きな生命活動、向かう方向、バイオリズムのようなものなのです。
ですから自分が思い描いた世界が現実になるということよりも、未来は地球に任せておいて、自分は淡々と日々の暮らしを紡ぎ、メッセージみたいなものを待つようになりました。
願望を実現するためには諦めない事、叶うまでやり続けることですが、個人から地球に視点を変えるとまた違った感覚になります。
ある日ふと降りてきた言葉やイメージを大切にすると、それは個人の願望を越えた使命のような感覚になり、それに沿って準備をしていくというスタイルになります。
結果的にその使命を受けいれることは自分の願望にもなり、拙著『奇跡が準備ができた者にだけ訪れる』に書いてあるようなことが起こるわけです。
あの頃は自分の中でもまだイメージが現実になるという考えが、よくわかっていない部分がありました。
無知ゆえの不思議さから、感動と歓喜と感謝の連続でした。
「これだ!」と思うものが現れる瞬間には即決できる確信のようなものがあるものです。
その確信が、頻繁に現れるか10年に一度なのかはわかりません。
忍耐強く待って、その時が来たら積み上げたヒットポイントで一気にクリアする、というようなイメージです。
今も待っていることがあります。
確信が持てないのに、馬鹿な脳みそはこうかもああかもと日々考えてしまうのですが、多分そのうち地球の正解がぽ~んと降りてくることでしょう。
ジタバタして動くさまはまるで、剥がれ落ちる皮膚細胞が必死で抵抗するような不自然な姿に視えるのです。
そうは言ってもやはり無駄な思考をしてしまう自分はまだまだ馬鹿な生物なんでしょうね。
今日も皆さんありがとう。
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