愛について考える時、フロムの様な愛の定義とルソーの様な愛の定義に分かれます。自己正当化の理論を採用するのが大抵の人間パターンで、かくいう私もかつてフロムについて

「よくぞここまで言語化してくれた」

と思ったのはそういうことだったのだと思います。

 

たとえば、私は子供たちの通知表などをチェックしない母親でした。

学校生活で問題があれば毎日顔を見ていれば気づくでしょうし、最低限の読み書きそろばんや生きる知恵は教えても、自分とは別の人間である子供たちを自分の想い通りにコントロールしたり才能を決めつけることや、彼らの人生を自分の敷いたレールの上に乗せることに全く興味がありませんでした。

幼稚園に入園したときから、持ち物は基本的に本人が自分で用意していて手を出したこともありません。いつ自分が死ぬかもわからないのだから独りで生きていけるようにすることが親の務めだと考えていました。

修学旅行も何処へ行ったか覚えていないし、説明会なども本人が理解できないというなら聞きに行きますが、思い出も進路も本人のものなので親がすべきことは環境を整えるくらいだと考えていました。どうしても行かなくてはならない懇談などは確認でしかありませんでした。

参観日も運動会も自分が観たいのではなく、本人が見てほしいかどうかで参加を決めました。

母親の仕事は基本的生活習慣を身につけさせることや身体を守ること。それ以上は本人の実力で、我が子を使って誰かと競ったりする人とは話もかみ合いません。

問題解決も人生も自分で決めてやってきたので、もし私の身体を通ってこの世に生まれ出た彼らが一人で解決することを望まないタイプなら

「動ける身体を創るけれど自分の人生は自由に」

という私の愛情はまったくもって伝わらないでしょう。

私にとっての愛は支配しないこと、そして本人がやりたいようにできる心身を創っておくことだけでした。他人からはスパルタに見えたり冷酷非道にみえることもあると思います。

 

愛とは深く冷たいものである

という私の理論はそこから来ています。

 

恋愛については記憶も薄れて、いまやどんな感情だったのかよくわかりませんが、自分のやるべきことは徹底的にやります。でも相手に執着はありません。手かせ足かせのない状態で愛し合える人が『本物』だと定義しています。常に心の扉は開け放しで、入りたい人は入ればいいし出て行きたい人は出て行けばいいと思っています。それは子供のころからずっと同じです。

ただし嘘つきは大嫌いなので、10年か長ければ20年、それを伝えても人を騙すことをやめないニンゲンとは縁を切ります。単なる私の好き嫌いです。できれば付き合っていきたいので、嘘はやめてほしいと伝え続けます。なので私が切った人は余程嘘つきだと思ってください(笑)そうでない限り、何年会わなくても縁は切りません。

フロムの愛するということに書いてあるのは、どちらかというと私の定義する愛に近いものです。

ルソーの考える愛は、独りで生きられない、何かの欠落からくるみじめさ故に他人を欲するもの……らしいです。

だから独りで生きる覚悟のある人は他者を欲することが無く、幸せにもなれないそうなのです。フロムとルソーは交わることはなさそうですね(笑)

 

相手の行動を監視し、雁字搦めにしたり泣いてすがったりして孤独を回避することを、私は愛とは呼べません。

では他人に対して、

「消えたいならどうぞご自由に」

という冷たい意見は、愛なのでしょうか。多分、ルソー的な愛を採用する方々はそれを愛とは呼ばないでしょう。

 

どちらも愛であることに変わりはないのかもしれません。それで成り立っているように思います。それらは生き方に通じている重大な要素です。よく似ているけれど、すでに遺伝子のどこかが違っている異種なのかもしれません。

 

一緒にいる時

「今この瞬間に死にたい」

と思った人が一人だけいます。毎日死にたくてたまりませんでした。幸せすぎて。

本能的なリスク回避なのか、彼とはその時以来一緒にはいません。なるべく会わないように努力しています。

生きる道が異なるのです。今のところ。

思うがままに生きてほしいし、私も合わせることは出来ないのです。

 

星の王子様の言うように

愛とは同じ方向を見つめること

だとするなら私にはそういう相手は独りもいません。今のところ。

ついてくる人はいても同じ方向を見つめているわけではないですし。

 

でもいずれやってくる種の絶滅。

地球の癌細胞が治癒する時がやってきたら、やりたいことなど皆どうでもよくなって、ただ生きるか死ぬかだけになるでしょう。

もしその時に私がまだ生きていたら、いったい誰と最期の瞬間を迎えたいのでしょうか。

 

今もなお答えが出ないままで困っています(笑)

 

最終的に愛とは限りなく一方通行なエネルギーであることに変わりはないので、自分が愛していれば幸せなのだと思います。

『愛し合う』という意思疎通の感覚はこの上なく幸せですが、それはニンゲン以外の生物とも可能に思えます。

地球を愛していれば間違いないというのが現時点の私の意見。

 

その中に在る哀しみや歓びをすべて含めて受容するしかなさそうです。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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