創作

自分のやりたいことは、幼少期からずっと変わらず、創作であったような気がします。

その「創作」というのは、世間でいう芸術という括りではなく、誰にでも可能な、もっと生活に根ざしたようなものだと思っています。

ところが身体は一つしかなく、結婚もしてしまい、子どもも産んだので、絶対的に割かなくてはいけない時間もあります。家族や他者のためにやらなくてはいけないこともあり、創作活動に全精力を注げるかというとそうでもありませんでした。

創作と言うと大抵は、絵を描いたり演奏したり、踊ったり、物を作ったりという風にイメージされるのでしょうけれど、私の考える創作は、自分で産み出すもの全てというイメージなのです。

ガーデニングもそうですし、かつて雑誌に掲載されていたキルト作品などもそうです。オリジナルのケーキを焼くことももちろん創作ですし、毎日作る料理も同様です。セーターを編んだり服を縫うことや、木工したり化粧品を作ることも、何もかも他にはない創作なのです。

つまり生き方そのものが最大の創作活動ですね。

都心にいると便利なモノに頼り、怠惰になって頭が悪くなりそうだと考えていたので、子供の頃から自分で出来ることはしようと意識してきました。

技術革新において、創った人は頭を使い進歩するかもしれませんが、利用する人は頭を使わず逆になっていくように見えます。

できれば薪でご飯を炊きたいし、都市ガスや電気すら使うのはいやなのです。水はどこからかひいてきたいのですが、今はその状況にありません。

アフリカで、電気ガス水道のない村の人たちの生活を目の当たりにしましたが、それでも彼らの心が日本人よりずっと豊かで、記憶力も良いことに、自分の感覚は間違っていなかったと思いました。

田舎に越してきて何より愉しいのは、都会にいるよりずっと頭を使わないといけないことです。以前のように徒歩で百貨店に行けるわけでもなく、マンションのすぐ向こうにスーパーとコンビニと、駅があるわけでもありません。車を使わなければ歩く距離は必然的にのび、運動量も上がり、頭がよくなるだけでなく、身体にもメリットが多いと感じています。

家族にも、納得のいかない経営者のもとで雇用され働くことをどんどん減らして欲しいと思いますし、だからこそ、都心に居たときよりさらに自分で創ることが重要になっているのではないかと感じています。

かつては家族の衣服も縫いましたが、現在は20代の頃の服を娘と共有したり、母が痩せていた頃の高価な服をもらったり、若い頃購入した国産のセーターを着たりして、永く大切に使う方にシフトしています。

食に気をつけて身体を守り、欲を出しすぎない生活は、環境に余計な負荷をかけない幸福な生き方のひとつです。

結果的に中学から体重も変わらなかったので、三人の夫は私が高額の美容品やたくさんの衣服を購入するところを見たことがないと思います。

けれども今の生活では創作活動は充分ではなく、自分で作ることが出来るものはまだまだあるでしょう。

最近、自己完結できる生き方をしたいという欲求がどんどん強くなっています。それは同時に社会に対しての依存を一つ一つ捨てていくことにもなるのでしょう。できるだけニンゲンの創ったシステムに支配されない生活は、創作活動とは切っても切れないものです。過去に購入した多くの物質は大切に利用し、今後は余計なものはできるだけ購入せず、出来ることから順にやっていきたいと考えています。

結局、小学生の頃に目標とした「無人島で独り生き抜くような強さ」に近づいているのだと思います。生まれ持った性質は、この年齢になっても変わらないし、考え抜いた目的や目標は死ぬまでブレないモノなのだと感じます。

 

富とは裸になっても持てるもの

 

死ぬときには、たくさんの富を持って裸で逝きたいと思います。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

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