どんな人も、生きていると嬉しいことだけで人生を終えることはできません。
時には死んでしまおうかと思うほどの出来事があったり、とても大切な存在と別れなければならなかったり、二度と会えなくなってしまったり……
私の長男のように不慮の事故に遭ったり、自然災害でとんでもないことになったりすることもあると思います。
人は自分がとてもつらいとき、それを受容できなくて、どうしても理由を探してしまいます。
なぜ自分だけが……
あの時ああしていればもしかしてこうはならなかったのではないか……
あの人とさえ出会わなければ……
見ている側も聴いている側も、本当につらいことってありますね。
表面的には、それは誰かのせいだったり、法的に裁きたくなるようなものだったりすることもあります。
確かにニンゲンがニンゲンや動物に行う残虐で非道な行いは、思考する力のある動物とは思えない場合もあります。
それを肯定しているわけではありません。
ですが、そのようなニンゲンを産み出してしまったのは、実際は私達社会なのです。
親の育て方が良くないことは多々あるでしょう。でもそれを止めなかった社会にも原因はあると思うのです。
息子のように車に巻き込まれたなら、運転手よりもまず、「欲を出しすぎたニンゲンが車など創るからそうなるのだ」と思いました。
罪を作ったのはニンゲンだと思うことが多すぎるようには感じませんか?
それを黙認してきた自分を後悔することはありませんか?
地球に必要でないものを作ったのはニンゲンですし、そうしてその土の上に生きていた罪なき多くの生命を殺した結果、回り回って自分たちの誰かが犠牲になるのではないかと思えて仕方ないのです。
もちろん、個人には悲劇です。だからこそ、そういう悲しみを生まないように、できるだけ荷担者にならない選択をしていきたいと思いますし、自分が日々行っていることが、果たして誰の為、なんのためになっているのか考えることも大切なのではないかと感じます。
マスコミなどで何かが取り沙汰されるとき、人々は一斉にターゲットを攻撃したい気分になってしまいますが、その原因の根源、ずっとずっと奥の方の核心を見てみると、実は自分に辿り着いたりするんですよね。
地球の上で、おかしいとわかっていながら、何の改善もせず見てみぬふりをしている自分は、間違いなくその社会を作っている一つの歯車です。
だから誰かを責めることはできなくなってしまいます。
事象のずっと奥の方を見てみると、涙は溢れることはあっても、誰かを恨んだりはできなくなってしまうのでしょうね。
罪を憎んで人を憎まず
という理論はこれに近いのかもしれません。
私のバラの鉢の中に嬉しそうにいたカマキリが、ゆっくり移動しようとしてたんでしょうね、翌日道の真ん中で車に敷かれて潰れていました。
死に別れは決して逃れられないことですが、その瞬間までは、誰かと愛し合うことを忘れずに、できるだけ地球に迷惑をかけない存在でいたいですね。
今日も皆さんありがとう
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