随筆 105

自分が大切にしていることは他者にとってはどうでもいいことだ。

承認欲など過度に持って、誰かに理解してもらおうなどとは思わない方がいい。

動物はみな自分のために生きている。

承認欲が強すぎて、注目されることや支配することに重きを置く人を目の当たりにしても、大抵のニンゲンは

「あなた勘違いしていますよ」

とは言わないものだ。

誰も誰かの人生に興味などない。勇気がなくて自分ができない生き方を、まるで映画のように他者に投影し、それを「憧れ」と呼んでみたり、劣等感に苛まれる人が他者を攻撃することで「優位」にたちたがり自己正当化をはかろうとする。

そんなために群れにしがみつくのだとしたら、自分の納得できる命の使い方にその時間を使った方が幸福だろう。

そうしてセルフコントロールできる動物や昆虫たちとやっと対等にニンゲンが並べたとき、はじめて群れの中の役割が顕在化し、益ある相互扶助関係を構築できるのかもしれない。

右往左往する人間の集団を一つの群れとするなら、オオカミや象たちが智慧あるリーダーをニンゲンに殺戮され、判断できずに群れが崩壊し死んで逝くように、この群れにも智慧あるリーダーが不在なのだとみてとれる。放置すれば、いずれ日本人も絶えるかもしれない。智慧あるリーダーを探し求めるか、関与せずに孤高を保つかのどちらかだろう。

また、精神的に自立した者同士が偶然お互いを欲する時、それを愛し合うとよび、孤独の恐怖や承認欲から相手に依存するものとは質が異なる。愛し合うのは生涯に一度あるかないかの奇跡的な現象で、大抵のカップルは時間と共にどちらかの、または両方の依存だったときづくことになる。コロナ禍で愛が消えたりはしない。それは多分、初めから愛ではなかったのだろう。別れは必然であると私は思う。

自分が愛を投じても相手に真意が伝わることはない。人はみな主観的な意味づけをして話をしている。どうやっても私を悪人に仕立て上げたい人は、無理矢理でも私に責任転嫁し全力で雲隠れすることもある。その人のお話を創る力はその程度のものなのだ。相手の脳は私にはコントロールできない。リアルを視れば他者の脳に介入するのではなく自分がその類に関与しないことだ。怒りのエネルギーさえ無駄だと思う。

美しいもので世界を創りたい欲求が強い私は、そういうモノは自分の世界からは見えないようにしている。そうするうちに淡々と生きることが得意になった。

争いが嫌いで、誤解させないよう正直に伝えてきたつもりが

「なにか魂胆が・・・・」

「嘘に決まっている・・・・」

などとトラブルにする人がいることにうんざりしていた。わかりやすく伝えないと、無用なトラブルが発生する。魂胆が、と考える人は本人が魂胆がないと他人と付き合わない人で、嘘だと言い切る人は本人が嘘つきなだけである。

ニンゲンは自分の世界観と他者の世界観が同じだと勘違いしやすい。トラブル回避のためにモノを書き始めたら驚くほど私の世界は平和になって安堵した。

言葉は一方的に創られたもので、相手がどう感じるかはその人の自由であり、自分が正しいと思っているわけではない。どんな人の意見もすべて個人の創作した話であることにまちがいはない。私の言葉もそうだ。

やはり私も動物で、自分のために生きて、徹底的に利己を追求しようと思っているのだろう。自己完結力を高めても誰にも関係ない。自分自身が楽しく満足できるだけ。不幸な顔をして何十年と生き物を殺戮して喰らうのは嫌なので幸福を追求しているが、これも誰かに承認してほしいわけではなく、ニンゲンに生まれた罪悪感を払拭するためにやっているだけである。

生物の優劣や正誤をきめつけ支配したがる高慢なニンゲンにはならないように、バカな生物に生まれてしまった自分を嘆き、昆虫や動植物に教えをこうようにしている。

だからこそ、智慧を授けてくれた存在には心から感謝である。

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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