随筆 104

朝から事務作業をして、ホームページのメンテナンスをして、そして娘にお昼ごはん作って、庭に出て植え替えをし、シェリーの相手は隙間、隙間に(笑)

晴れて微風のある日は、近所の人との挨拶も、郵便配達の人との会話も、空気感がとても良い。

畑で育った野菜をお弁当のおかずにして、庭のバラを丁寧に剪定し乾燥させる。

植物の恵みを堪能できる季節だ。

7年から10年くらい前の大きなポプリの瓶を開けてみると、あの頃ベランダで咲きほこっていた大好きなオールドローズたちの姿が浮かんでくる。

観賞用に育てているのではないから、花が咲いたらすぐに摘み取って、チンキにしたり滲出油にしたり、ポプリにして、余すところなく身体に取り込んでいく。

こういう刹那を幸福と呼ぶのだろう。

ニンゲンは大変だ。

いつの頃からか自分を見てほしい人で溢れかえるようになった。

愛して欲しい、愛して欲しいと老若男女が叫んでいるように見える。

重箱の隅をつつくように、他者の失敗を批判し、まるで自分が完璧かのように振る舞い、人を落とすことで自分を優位に見せたがるのも、自分が劣性だと思いこんでるゆえの行為だろう。

祖先から選択してきた食べ物や環境の結果により、もしかしたら自分は生命力が弱い生き物かもしれない。

信頼した誰かに裏切り続けられ、自分の頭はとても馬鹿なのかもしれないと思ったりもする。

けれども、驚くほどにシワシワになって老衰で死のうが、運悪く台風で看板が飛んできて頭に当たって死のうが、命を若くして落としてしまうことになろうが、死ぬその瞬間まで、自分の納得する命のつかい方をしていれば幸福であると思う。

他者の動向に一喜一憂し、右往左往すれば、きっと死ぬまで他者ために命の時間を使う不幸な人生を送ることになるだろう。

そんな100年なら、後悔のない20年のほうが幸せではないだろうか。

生きているか死んでいるかもわからない老後のことを考え続ける夫婦の数十年と、今やりたいことを追求し、柔軟に変化していく夫婦の数十年なら、後者の方が有意義な命の使い方だと私は考える方だ。

動物はなんとしても生き抜く。

ニンゲンが檻に閉じ込めて、彼らの自由を奪ったり、頭を剥いて実験したり、喉からパイプを入れてフォアグラなど作ったりしなければ。

この国の中にも奴隷はたくさんいるけれど、檻と手枷足枷がないゆえに、奴隷になるか否かを自由に選択できる。

誰も誰かの人生を強制する権利はないし、いやなら断ればいい。

責める人がいたとしたら、それはきっと、この世の生き物の優劣を決めたり、正誤を決めつけられる素晴らしい人間なのだと自分を定義している自信家なのだろう。

優劣や正誤をきめつける人は、人間を振り分け、生き物を振り分け、他者を受容できなかったりする。人を蔑んで争いを起こしたがり、支配するために地位を欲しがる。

私にはそれが無意味に見える。

どれもどんぐりの背比べで、私たちニンゲンは、結局、皆食って寝て出して交尾するだけの繰り返しだ。

自分を飾り、優位に見せたところで、他人は興味ないだろう。

つまり、己が自分のやるべきことに徹し、気に入らない群れには所属せず、納得する生き方を選択していればそれで幸福は確立する。

他人は関係ない。

せっかく生きているのだから、空を飛ぶ鳥のように、鼠のように、思い切り自分の人生を楽しみたいと思う。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

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