たくさんの情報が溢れているように見えても、本当のことを発信している人は多くはない。
そのすべてが主観的な意見であり、主観的ということは、地球上にいるヒトの中の個体が持っている世界観を話しているに過ぎないわけで……
ウェブの記事も、書いている人の質を見る必要があり、一本いくらで経験のない人が内職として書いているものもあるので、あまり信憑性はない。個人の意見として読む方がよい。
世の中、知らないことは人それぞれたくさんあるし、それを嘲笑する人もいるが、知らないことが必ずしも悪ではないと私は考える。そもそも大人になってもなお、何かを知らないで生きていられるということは、その人の人生に、それらの知識は必要なかったということなのだ。
数学の三角形の合同の証明は、中学時代に習ったけれども、未だ生活に利用したことがない。だから、今更復習して思い出す必要もない、と私は考える。
大多数の日本人が英語を話せないということは、彼らに英語は必要ないということだ。
特定の知識をもつ人が、持たない人をバカにしたり蔑んだりして、これくらい知っておかなければ、と考えることは滑稽である。
もしも何かの知が必要なら、人はひとりでに覚えるものだ。日本の教育が自発性を求めない教育だからか、それを正しいと信じて大人になっても、他者に正しさをおしつける場面がよく見受けられる。また、与えられた知識にばかり頼る人は、自分で創造する力が失われているのかもしれない。
だから何かを「知らない」人に出会ったら、その人の世界観を想像してみることだ。必要ないから知らないこともある。その人はそれを知らなくても現時点まで生きていられたということだし、その人の周囲もそれで問題なかったということだ。
知は必要な人が自然発生的に掴むもので、偏差値の数値で戦うために身につけても意味はないし、我が子の自慢をするために必要のないことまで覚えさせて競争させても本人が幸せかどうかはまた別の話である。
必要性を感じて、勉強がやりたいと思ったなら、いくつになっても始めることはできる。日本は恵まれていて、図書館もあれば、多くの翻訳された書物もあるし、グーグルで翻訳して英語の記事を読むこともできる。海外のことが知りたいなら机上の空論よりも、直接行くほうがよい。
世界で働く人は、それ相応の知識が必要になるし語学も必要になる。村から出ない人はその土地における深い知識が必要になるだろう。博学だから偉いわけでもないし、地域から出たことがないから大切なことがわかっていないわけでもない。
自分に知っていることを相手が知らない場合、その人にそれらは必要なかったというだけのことだし、逆に、自分が知らない異なる世界の知識をたくさん持っているのかもしれない。だから、どんな人にも敬意は忘れないようにしたい。
途上国に行ったときに、私達先進国民のような機械やシステムを知らなくても、電気ガス水道がない中で助け合って生きている人々を見ると、日本人が持たない多くの学びと気づきを得る。
ハムスターと真剣に付き合うと、彼らは私達より強いし賢いとわかる。体が小さくて、ニンゲンたちに捕まって自由を奪われてしまったというだけのことで、ニンゲンより劣るというわけではない。
狭い世界で、他者に敬意も持てず、コピペした知識をひけらかしている人々や、自分がすべてだとか、自分が賢明だと思っている人は逆にそうではないのかもしれない。
教育の正しさを個人が決めてしまったら、あまりにも傲慢に見えてしまう。必要なものなら残るし、必要なければ淘汰されるだろう。
強制して何かをたくさんコピペさせてもあまり意味はなくて、100のコピペより、1の体験の方がずっと価値があることを、本当は誰でも知っている。
大人は、子どもや若者に対して、背中を見せることが一番大切だ。本人が必要なことを勝手に学び取っていくだろう。
知識で武装しなくても、いま現代をビジネスもせずに生き抜いている先住民がいる。どんなに周りが利便性を追求しても、アーミッシュはあのような生活を続けることができている。
大切なことは本当に「知識」だったのだろうか……
本を読むことも嫌いじゃないが、私はこんなふうに考えながら読んでいる。
「うわー、この人、お話づくりがうまいなぁ。」って。
真実は虚無
リアルはファンタジー
なのだ
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