半年ぶりくらいに同居人のブログを読んだ。
そうしたらそこに書かれていたことが……
先日私が随筆の中で書いていたこととほぼ同じだ。
あれ?私の読んだのかな?
でも、彼は私の記事を滅多に読まないからおかしいなって思って公開日を見ると……
彼の方は7月、私のは8月に入ってから。
同じような場面を別々に見ながら、同じようなこと感じていたんだな。
不思議だな……
自分の知る世界をすべてだと思いこんでいる人から見れば、私達なんて年齢も離れているし、息子と彼は一歳しか変わらないし、この関係性って理解できないんだろうな。若い男が好きな年上の女性からは、彼は熟女好きだと勘違いされて困っている。私は私でおじさんを好きでないというふうに誤解される。
同じ年数生きたからといって、同じ思考を持つわけではない。
若くても悟ってる人はいるし、50年生きても、まだ自分一人で責任とれない人もいる。
私達は年齢を好きになったわけじゃない。どちらも資産は持ってないので、互いの「物」目当てでもない。戸籍も外したので、書類上今は婚姻もしていないことになる。
形にこだわるか、魂にこだわるかの違いだと思う。
彼とTwitterで出会ったとき、隠されている彼の言葉の真意が好きだった。表面的な言葉より、それを発する潜在的な彼の意識が好きだった。
なんでこうなったのか、実のところ私達にもわからない。
でも、彼の世界は私の世界にとても近いのではないかと感じていた。生きていた環境が異なりすぎて、彼はそれを表面化できずにいたのかもしれない。
いま、彼のいる地点は多分、手放しで喜べるようなものではない。でも、かつて私がそこを通ってきたように、それで行き止まりかと見えるようなその向こうには、まだ扉がある。
人は生きている以上、脚を止めることは出来ないのだと思う。そして、それは誰にも助けてももらえないもので、自分の脚で歩くしかないのだ。
そこにたとえ壁があっても、動かない鉄の扉があっても、諦めずに進んでいけば、多分、みな同じ場所に辿り着く。
私達はみな同じ生き物だから。
違いがあるとしたら、それらを越えて行くのか、その前でいつまでもぐるぐるまわっているかということくらいじゃないだろうか。
私はいつも、壁の向こうが見てみたいと思った。生まれてからずっと、それは変わらなかった。
未だにそれは終わらない。
きっと死ぬまで歩き続けるしかないのだろう。そして、死んだあとも、もしかしたら、まだ確認できることがあるのかもしれないという、ささやかな愉しみも持っている。
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