随筆 28

知的好奇心は、活力を得るもののひとつではあるが、全体からそれを眺めると、抑制する力を持つことのほうが大切だったのではないかと思うこともある。

人々は「頭の良い」人を称え、憧れ、羨む。しかしそれも、価値の基軸によって捉え方は様々に変わる。

知的好奇心を止められない、つまり欲が過ぎたゆえに、同じ種である仲間と助け合うものではなく、殺戮することになる兵器や爆弾や薬品を作った「ニンゲン」がいる。貨幣を造ったがゆえに、独占欲が高じて仲間を直接的間接的に殺す「ニンゲン」もいる。

ある新種の何かが現れた途端、「進歩」という言葉のイメージに洗脳されて、一同に動くさまは、まるで日本のビジネスが、消費者心理を読んで、綺麗な言葉とパッケージで金を支払わせるように仕向けるあれと似ている。

新しい=正しい、ではないし、新しい=進歩でもない。

ニンゲンには小さな目しかついていないが、税金を投入してまで教育を受けさせてくれたおかげで、視野は限りなく広げることが可能である。

それが本当なのかどうかとか、必要なのかどうかなどは、自分の身体や、身の周りの小さな世界、書籍や、テレビやネットの画像動画などで、確かめることもできる。それに生きた年数をかけ合わせれば、相当数の気づきを得るはずだし、さらに家族知人友人を巻き込めば、本を一冊も読まなくても、膨大な知恵が大人にはついていなくてはおかしい。

わざわざ動物の目に薬品を入れてまで危険かどうかを確かめなければならないものを、なぜ人々に売らなければならないのか。なぜ猿の頭を剥いてまで脳のしくみを知る必要があるのか。それは、生きるための活動を、他者におしつけた者の、単なる余暇の使い方の一つなのではないか。とりもなおさず、このような生きることにとって、どうでもよい文を書いている自分もその一人であろうなとも思っている。

かつて存在した「頭の良い」ニンゲンたちは、きっと今のこの現状をみて嘆くのかもしれない。

栄華を極めたものは必ず衰退する。生まれたものは必ず死ぬ。湧いてきたものはいつか絶滅する。そういう自然の摂理を基軸に考えると、知的好奇心を含め、欲にまみれて何も棄てられない「頭の良い」人々も、ただ自然の流れに身を任せて生きているだけなのだろうと思う。

自然の循環に身を委ねることは、ある意味潔さだ。ジタバタしても始まらない。他者を変えることも、支配することも、独占することもさほど価値はない。

そして知識の上で、わかってもわからなくても、自然の摂理は何も変わらない。ならば、わざわざそうする意味って、どこにあったのだろう。自然に任せておくのが一番早かったのではないか。

ああ、そうか、絶滅させるためなのか…

じゃあ、やっぱり好きに生きろってのが自然かな……

そんなことを考えながら、脳科学の本を読んでいる自分を、もう一人の自分が遠くから眺めている朝だった。

 

 

 

 

 

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