随筆 31

自由という言葉を使うとき、あまりにも頓珍漢な人がいるので、そうで無い人との違いを考えてみた。

自由とは圧倒的な覚悟と責任が伴うものだ。

本来、自由とは、その人の信念、信条、価値観に基づく生き様であり、利己的とは少し異なる。私が、私は、などと一人称を使っても覚悟の上の一人称だったりするのだ。

頓珍漢な自由論は、単なる独りよがりで、責任も取らず、いわゆる自己中心的なエゴイズムを言う。その人は、本当に信念がある人を見たことがないのかもしれない。

ちなみに脳科学の分野では、このような頓珍漢なエゴイズムは、脳の低下と不均衡を招くと言っている。つまりそれらは、新しいことを受容したくないという固定化で、簡単に言うと、成長が見込めず退化するだけということになるのだろう。

新しいことを取り入れるのは少々ストレスを感じる。だけど、世界は変化していて昨日と同じものなど何もない。

あなたの皮膚は去年とはまったく異なるものに入れ替わっているはずだ。自分の体であっても、自然の叡智に任せて変化しているものがほとんどだ。

だから、柔軟にしなやかに考えて、固定化せずにいきたいと思う。

昨日と同じ、皆と同じでは、固定化して脳はどんどん退化してしまうように思う。

環境の変化に適応できる種だけが生き遺る。

頑なに過去の自分を正当化するのではなく、緩やかに形をかえながら、明日に繋げていきたい。

そんなふうに共生できる存在と世界を構築していきたい。ニンゲンだけではなくて。

そして今は、また一つ自分の思考回路を組み替えたくて試してみている。

感情を顕にすることで、相手が幸福感を持てるならいくらでもすればよいが、そうでない怒り、悲しみなどの感情は、できる限り静かに「話す」ほうが良いと思う。

それらは、職場では誰しもができていると思われる。プライベートな関係においても「静かに伝える」ことで、セルフコントロールができやすくなる。

幸福な世界を築くには、まずセルフコントロールが重要だ。それもできないまま、誰かや何かに自分を幸せにしてもらおうとしても、それは一時的な錯覚に終わるように思う。

人と共生する理由は幸せでいるため、もしくはなるためだと思うので、そうでない相手とは再度関係を見直したほうがよいとふと頭をよぎった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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