随筆 57

本当に自分が願うものや望むものを、ニンゲンにはなかなかわからないようだ。

自分のことなのにわからない。

それが生命の神秘でもあるのかもしれない。

何度も同じことを繰り返して、これが原因か、あれが原因かと探ってみるものの、本当の問題は、その表面的な問題の中にはない。

疲れ果ててふとひらめいた真逆の発想で、腑に落ちる答えが導かれたりするものだ。

真剣に個々のニンゲンと向き合ってきても、やはり真実を見出すことは簡単ではないのだなと感じる。しかしながら、この知的好奇心はやむことなくまだまだ続きそうだ。

ありがたいことに私の周りには、一般的には大成功をおさめていると言われる人達が何人もいる。彼らと笑いながら話もできる環境にあるのだけれど、なぜかちっとも羨ましくない。

去るものは追わないし来るものは拒まない。それに徹していたらこうなっただけで、自分から追った人はひとりもいない。

もしこれらの人々がすべて、一日に一ドルも稼がないアフリカの農村の人々に代わっても問題ないし、無人島の鳥たちに代わっても、多分問題ない気がする。つまり、心が動揺しないということだ。

そんな自分を宇宙から俯瞰的に眺めてみると、どうも核で望んでいることが、他者とは大きく異なっているのだろうということだけが明確になる。

自分のビジョンはホワイトボードや、ノートに書いてあって、何年かに一度修正はするものの、方向性は変わらない。

小説家をめざしてライターをしている長男が、その映画のようなビジョンを見て、私みたいなニンゲンこそ小説家に向いているのだと言うのだけれど、作り話を書くよりは、作り話を実際に創ること、つまり自分が体現することの方に、断然クリエイターとしての面白味を感じてしまうので、私には小説は書けない。

壮大な物語をいくつも創ることは出来ないけれど、自分の人生そのものを一つのファンタジーとして創り、そのように生きることならば出来るのではないかと考えた。

これはある教授に云わせると、科学的な考えなのだそうだ。

研究者の仮説が私のいうところのファンタジーの創造で、研究者のいうところの立証が、私の生きる人生、つまり体現となる。

それを言葉にして書き遺した場合、私が勝手に表現している、ノンフィクションファンタジーが論文になるというようなイメージだろうか。

私はニンゲンのシステムの管理下で動くことが面白くない。

ニンゲンの陥りやすい脳の動きに、自分が支配されることさえ面白くない。そうは言っても、残念ながら私もホモ・サピエンスなので、この域をこえるにはホモ・〇〇に進化するしかないのだろうな。

思い込みを外すというセミナーを創り上げているのも、思い込みで自己を雁字搦めにしている全ての人の可能性を拓きたいという願いがある。

そして、誰にもわからないだろうこの創造の先で私が見てみたいと思っているものは、強いて言うなら人間の未来ではなく地球の未来であるのだけれど……。

 

万物の恵みにありがとう。

 

※写真https://images.nasa.gov

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