過去を振り返る

生きている間に、どんな存在も成長し変化していきます。

別の言葉で表すなら死に向かうということでしょうか。

誰しも振り返ることはあると思いますが、それが想い出を語るというようなことではなくて、時にその人の瞳がずっと過去を見つめているように感じることがあるのです。

成長した我が子ではなく、幼少期の彼ら。

年老いたパートナーではなく、出会った頃の彼や彼女。

昔住んだ場所や従事していた仕事、そして懐かしき時代など……

よく過去を振り返っても無駄だという人がいますが、それはいささか短絡的な気がします。

その人は、瞳に遺るその過去を、きっと現在(いま)よりも愛しているのです。

今の我が子ではなく幼少期の彼らを。

夫婦や恋人なら、共に生きてきたその時間ではなく出会った頃の彼や彼女を。

令和ではなく昭和という時代を。

そして今ではなく過去の自分を。

「過去を振り返っても無駄だ」

と安易に切って捨てる人もいますが、その過去の点があったからこそなんとか生きている人々もいるのだと思います。

最近は動物行動学の本を読むことが多くなりましたが、愛している仲間に先立たれ食べなくなり、後を追うようにして死んでしまうのは、決して人間のペットだけではないようです。

果たして、過去を愛しその記憶を糧に生きることは、本当によくないことなのでしょうか。

人はみな精神の鍛練をし、進まなければいけないのでしょうか。

我が家に居た齧歯類の彼ら10匹の中で、どう見ても特別な感情を互いに抱いていたグレイとモチ。

グレイが逝った直後、誰の目にも憔悴しきって食欲がないモチの姿に涙しました。

元気だった彼の体毛は抜け始め、一か月後、グレイの後を追うように逝ってしまいました。

彼らは彼らなりのコミュニケーションがあり、好き嫌いがあるのはよくわかりました。次々と仲間が逝ってしまったことも皆知っているようでした。彼らは自分の名前を呼ばれた時だけ「なに~?」と眠い目をこすって起きてきますし、お別れは残った全員に毎回きちんとさせていましたから。

同様に群れる動物の一種でもあるニンゲンも、愛する存在がこの世にもういないということが最大の不幸となり、食欲が落ち、免疫力が低下し、やる気を失い、自然に生を終えていくこともまた自由な選択の一つなのかもしれません。

大多数の人が特定の意見に「右に倣え」をし、正誤を決めてしまうことには強烈な違和感を覚えてきました。

何か特定の物に対しての数字的な結果を得るために過去を振り返るなという意見は理解できます。

何かを追い求めている人が過去を振り返らないということも理解できます。

現在(いま)を大切に、というスピリチュアル系の意見もわからなくはありません。

でもその個の「幸福」をはかることに焦点をあてたなら、変化することが不幸である人も大勢いるのかもしれません。

過去に確かに在った「幸福の絶頂」は二度とこないかもしれないけれど、どのような状態であっても生きていることにアッパレと言いたくなるのは、きっとその人が悲しみを受けとめて懸命に生きているからなのかもしれません。

変化し進化していく今の私ではなく、誰かが過去の私に固執するとき、彼らは私の過去の「点」を愛しているのだと感じます。

「あの時の私はもうここにはいないのよ」

と言葉にしたところで、いまの私を受けいれることはできないのかもしれません。

10代の頃、こう考えていました。

二十歳には二十歳の自分に合う人が、三十には三十の自分に合う人が、そして四十には四十の自分に合う人がいて、私はきっとその時々で必要な人と生きているのでしょうって・・・・。

もしも方向性が同じで、互いの変化を心地よく感じながら共生できる存在があったなら、死ぬまで一緒にいるのかもしれません。

基本的には「変化は進化」だと捉えていますが、たとえ進化など全くせずに絶滅したとしても、その血が絶えたとしても、同じ世界に生きていたということはやはり歓喜すべき奇跡なのだと思います。

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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