自分で本を書いたからわかることがあります。
とはいっても、私の場合は実話ですが。
実話でも出版社の編集担当との打ち合わせではもちろん、細かい確認作業はあります。
たとえ実話でも、名誉棄損になるようなことは省かなくてはいけません。
それが本当のことだとしても。
でもね、気づいたんです。
本当のことって事実とは限らないなって。
相手がどんなに悪意に満ちたような行動をしても、偽善的に綺麗事を並べ続けているように聞こえたとしても、悪意があったと決めつけることはできません。
どんなことも自分の感覚、つまり主観を通した世界であり、相手からすると全く違った世界に見えている可能性があります。
事実、私は保険目的に息子の介護にしゃしゃり出てきたと言われていたのですが「金のためには子供さえ使う」という価値観を持つ人は、そういった答えを導き出すのかもしれません。
「できる限り保険金など要らないのです」と、被告の保険担当営業マンにいきなり言い放つ私の価値観は彼女にはなかったということだけはわかります。
自分に無い思考は永遠に理解することは出来ないものです。
つまり、事実は確かにそこにあるのですが、私から見た世界と本人から見た世界、計算ばかりする人の世界や、精神科の診断書を提出してでも執行猶予をつけたい被告の世界など、書き手によって登場人物は善人にも悪人にもなり得ます。
何が言いたいかというと、どんな話もみな自分の目や耳、感覚器を通したものでしか書けないということです。
普段の会話もしかりです。
誰しも筋書きを考えて話しています。無意識に。
筋書きは、その人の中にある思考回路の数、つまりキャパシティ内でしか描けません。
だからいくら奇跡を起こしても、書き手によっては私だって善人にも悪人にもなり得るのです。
普段目にする記事なども、すべてが虚構に見える人もいれば、エビデンスだと思い込む人もいます。
それも個人の思考回路によります。
ですから何かを真実だと決めつけるのも、嘘だと決めつけるのも本来誰にもできないことなのではないかと思います。
祖母のように、遠方の他府県から拝んだだけで来たこともない都会の引っ越し先の裏に「緑の木が生い茂る場所がある」と言い当てる人もいて(大きな公園がありました)共感覚を持っていない血筋の方はそれを嘘だと言うでしょう。
物事の見方は自分の思考から来るものです。
ですから言葉にはその人の世界観がはっきりと表れているのです。
でも脳に蓄えた膨大な知識から瞬時に出てくる直感は、一線を画さなくてはいけないかもしれません。
多分スーパーコンピューターみたいなもので、よくわからなくてもそれは、地球が生物に与えたリスク管理の一種なのでしょう。
火事の前に逃げるネズミや、地震の前の飛び立つ鳩のように。
謙虚になるということは、平身低頭に見せることではなく、己は単なる生物の一種であるという動かしがたい真実をどう捉えるかというところから始まります。
どんなに膨大な勉強をしても、たかが生物の一種の人間ごときに真実を見出すことなどできないでしょう。
現に大木は私たちよりずっと長く生きているし、昆虫や菌類は人間と比べ物にならないくらい数も多く繫栄しています。
私には理解できない世界です。
自分が信じているものが正しく見えるので、大抵の人は信じていないものを間違いだと決めつけてしまいます。
そういったことから差別や摩擦が生まれます。
そして専門的になればなるほど、専門外の知識が浅薄になり、総合的判断から遠退いていくというトラップに陥りがちです。
もしも信じてきたものが間違いかもしれないと思うことがあったなら、方向転換してみましょう。
自分が費やした長い時間を捨てることは、なかなかできないことです。
でももし自分が間違っていると自覚をしていながらまだそれを続けるというなら、殺して血肉にした生命や自分の先祖に対しても申し訳なく、手放しで笑える人生は来ないのではないでしょうか。
どんなに素晴らしい権威でも知らないことは山ほどあります。
皆同じ人間ですから。
罪悪感は嘘からしか生まれません。
もっとも不幸なのは自分に嘘をつき続ける人なのです。
あなたの人生はあなたのもの
私の人生は私だけのもの
誰かに誰かの人生を強制する権利はありません。
自分の中から湧き出すものは、罪悪感ではなく幸福感にしたいものです。
今日も皆さんありがとう
0 comments