自己をつき詰めて考えていくことが、誰かを理解することや他生命を理解することに繋がるように思う。
相手の気持ちに立つということは、人を理解して想像を張り巡らせるということそのために基準となるのは先ずは自分で、それを軸に各々の僅かな差を認めていくということになる。
自分を理解することに浅薄だと、セルフコントロールさえできずに年中右往左往する。
だから、占いなどで自分を探りたくなるのだろう。
土を理解することは自分を理解すること。
植物を理解することは自分を理解すること。
動物たちを理解することは、自分を理解すること。
そして最終的に宇宙を理解しようとするとき、さらに深い思考が生み出される。
カレル・チャペックが
鉢の中に宇宙がある
と云うように、バラを育てていて確かにそうだと思った。
ハムスターの中にも宇宙があった。
自分をどこまでも分解して考えていけば宇宙になるのだと思う。
私達をつくる主な構成元素は、酸素、炭素、窒素、水素、リン、硫黄であり、人間だけに限らず生命体は皆バラバラにすれば元素になるはずだ。
その元素がくっついた先に菌や細胞や自己があるとするとき、この意識が有機化合物から生み出されると考えてみる。
そうなると言葉を話すとか、目があるとか、足があるとか無いとかではなく、有機化合物全体に意識があるのかもしれないと考えることもできる。
となると昆虫にも意識があり、当然植物を焼いたり引っこ抜いたりしても意識があり苦痛を感じているかもしれないと考えられる。
下手をしたら水にも土にも意識があるのかもしれない。
私達の細胞一つ一つは毎日生まれたり死んだりしているけれど、もしかしたら精子一匹にも意識があるかもしれないし、腸内細菌一つ一つにも意識があるのかもしれない。細胞が入れ替わっても自分は自分だという認識があるなら、自己意識はいったいどこから来ているのだろう?
身体が失くなればどうなるのか。
例えば事故で両脚を失ったとしよう。
それでも意識は確かである。
では、脳を失えば?
心臓を失えば?
つまりそれは死ということなのだけれど、本当に意識はなくなるのだろうか?
私達生命体の構成元素はどこから来たのかと考えるとき、それは地球であり宇宙ということになる。
だからつきつめていけば、宇宙に到達する。
しかし、その宇宙も見たことが無いので本当に在るかどうかはわからない。
誰かが創造したものかもしれない。
何が本当で何が嘘なのか、結局わからない。
リアルを徹底的に見ようとしても、最終的にそのリアルが何なのか人間にはわからない。
死んでみないとわからないかもしれないし、死んでみてもわからないかもしれない。
こんな風に日々思いを巡らせていると、一つの単なる生命体である人間が何かを盲信したり、傾倒したり、執着したりすることがとても馬鹿らしくなってしまう。
何かを意味づけしお話を創造するのはとても面白いし興味深い。けれどもどんなに面白い話を創っても真実はわからない。ニンゲンはただの生物だから。
このようなことを考えれば、
「所詮すべてが無意味だ」
と投げやりになりがちだが、何が本当かわからないからこそ面白くもある。
人だけでなく、虫も、花も、動物たちも、魚も、すべての生命に価値がある。
自己がこうした元素や細胞や菌類のおかげで出来上がっていることや、地球上の生命体の循環で生かされていること、それは他生物も同じであることを自覚し、意識は生物すべてにあるかもしれないなどと考えていると謙虚にもなれる。
死に逝く他生命に心から感謝もできる。
自分は単なる有機化合物のはずなのに、確かに他生命と意識と意識の融合のようなものは感じとれるし、愛し合う感覚もある。
大切な存在が消えてなくなると涙が止まらない。
もし本当に地球という星や数え切れぬ生命体が意識を持って生きているとするなら、それを人間が簡単に殺してしまうことに生物すべてが深い悲しみを覚えていることだろう。
平和で他生命と共生できる世界が来たらいいな。
今日も皆さんありがとう。
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