同じようなタイプの人を好きになったり、友になったりするのは幼稚園や小学生の幼児期によくあることです。
ですが中学生ともなると、自分と違うタイプの人の性格もなんとなくわかってきて、精神年齢が高い人ほど、異なるタイプから学びを得ようと努力します。
ところが高校以上では日本の仕組み上、偏差値レベルの近い仲間と日々を過ごし、ましてや勉学を目的に大学に入るとなると専門分野が近い人と議論する毎日。
自分と異なるタイプとの『格差』は一旦大きく開きます。
そして就職。
上場企業に入った経験のある人ならわかりますが、企業名に酔うあの不思議な連帯感みたいなもので、今度は個人事業主や浮浪者に対して想像力が乏しくなっていきます。
ところが、上場企業は細分化されていてしっかり役割分担が出来ているという構造上、中小に転職すると『自分の担当』に拘る人も多く、経営を想像した全般的な業務を一人で行うことが出来ません。
誰がどのように会社を設立し、努力し、大きくしたのか、全く考えていないようでした。
ハラスメントという言葉に表されるように、ジェネレーションギャップや真の多様性を認め合い和することはできない世界を創っています。
これらは学歴ではなく、幼児期からの世界観です。
東大生が中卒にかなわない世界は数多あります。
この国はどうも和することより、差別が好きな傾向にあるように思いませんか。
ゆえに日本語に『いじめ』や『村八分』などという言葉が出来たのかもしれません。
今、難解な分厚い本を連日読んでいます。
もう何巡目でしょう。
4年ほど前に見つけたものです。
現代文でない上に、誰かが描いた解説書を信用していないため、原文で読んでいるので尚更です。
そこに書かれていることがあります。
「本当の和とは、似た者同士仲良くすることではなく、凸と凹が仲良くすることを和というのだ」
また
「己の腹と口と行いを一致すること」
もそれであると。
つまり自分の心と一致しない綺麗事を吐き続けている人は、そもそも他人向けの自分と本当の自分を和することが出来ていない、ということです。
そんな人間に、平和や幸福が訪れるわけがないと、至極全うな意見が書かれています。
また、利己的なニンゲンは改心しなければ終わるとも。
ですが、悪を悪と想うことが、そもそもの悪の世界を創り出し、このような世界にした根源でもあるという深い内容。
私にも嫌いな人種はいます。
国籍や肌の色の人種ではなく、綺麗事を話す類や責任転嫁をして逃げ続ける利己的な人種のことを指しています。
その様な類を悪ではなく単に『嫌い』で留めおくことは重要なんですね。
嫌いでも、地球が生かしてあるわけですから、なにかしら役割があるのでしょう。
私にはそれをジャッジすることはできません。
そういう類がいるから、光り輝く生命があり、山は呼吸し、水に抱かれ、万物に感謝できるのですね。
過去すべてにおいて、責任転嫁し続ける生き物や寄生してきた生き物さえ、きっと地球のキャスティングには重要だったのでしょう。
つまり、本当の幸福を報せてくれる存在は紛れもなくかつて嫌悪した生き物たちであり、恋焦がれる生命が一点の曇りもない美しい存在であると気づかせてくれるということです。
やはり万物に感謝です。
地球はうまくできていますね。
今日も皆さんありがとう
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