何に対してなのか明確にはわかりませんが、生れてすぐから何かのために準備をしてきたような感覚があります。
映画『君の名は』で言っている
「ずっと何かを、誰かを探している……」
というような感覚に似ています。
人それぞれに地球が与えた役割があるとすると、例えるならそれは受精卵から脳や心臓、皮膚などに分化していく様に似ていて、他生物とニンゲンという種の役割だけでなく、個々に何かしら決まった流れみたいなものがあるのだと、私は考えてきました。
皮膚細胞に生まれても、粘膜に生まれても、毛髪を羨んだりはせず、自分の働きに徹するのみ。
生物全てに意識があるとするなら、腸内細菌は自分ではなく別の意識でしょうし、皮膚の上のミクロコッカス菌なども自分とは異なる意識でしょう。
ですから、自分にも自分では気づかない地球が与えた役割があって、それに衝き動かされて生きているのかもしれないという思いがずっとあります。
幼稚園に入る前から原始人を尊敬し、周囲の人間が遠回りをしているように視え、ゆえに同級生とは話が合わず、大人になっても誰とも合わず、
「もし日本国内だけの価値観を正しいと思っているなら」
とか
「もし人間が創ったお話を信じているなら」
などという自分とは異なる前提条件を想像してから会話をしなくてはならない疲れに疲れる人生でした(笑)
一般的に変人だとか異端という言葉で表現されることに、もはや慣れきっていて、自分の人生は自分のものなので何と言われても気にもしませんでした。
しかしながら、不思議なことに「奇跡は準備ができた者にだけ訪れる」を描いたあたりから、周囲の態度がぐるんとひっくり返りました。
ある意味、あの本で真実は虚無リアルはファンタジーを息子と共に証明したようなものですから。
とは言え、私は徹底的な現実主義者で、小説のような創作は幼少期から読まないタイプでした。
ドキュメンタリーやノンフィクション、研究者の文献的な現実に即した本が大好きです。
ただ、自分で本を書いたのでわかることですが、ノンフィクションでも研究論文でも、全ては著者の主観です。
著者からはそう視える、そう感じるということの積み上げなので、別の人が同じ事象に遭遇した場合、同じように視えるかどうかはわかりません。
だから真実は虚無リアルはファンタジーなのです。
言葉は個人に綴られていて、その言葉でさえ、聞く側の概念と一致しているかどうか証明の仕様もありません。
私の本も実話ですが、私の主観で書いているので
「本当なの?」
という意見はあがるかもしれません。
それをなるたけクリアにしたくて、息子自身から視た奇跡についての本人の原稿を巻末につけたという次第です。
でもこの奇跡さえも、父に抱かれていたあの頃から思い描いた未来に対する準備だったような気が今はしています。
だから起こることは必然。
子を産み、その子ども達の未来を幸せにしたくてやってきたことが、結果的に小学生時に決めた自分の目的や目標と合致し、ヒットポイントがどんどん積みあがっていくことになりました。
コニーサン達が教えなくても何もかも知っていたように、エンジェル達が教えなくても何もかも知っているように、私たちも教えられなくても何もかも知っている……
はずなのです。
私はそういった地球の声を聴いていたかったのです。
雀やゴキブリにわかっている地球の仕組みを人間が分からないはずはないのです。
生物の一種サピエンスは、本来は皆素晴らしい生物だったと思います。
私たちが信じるべきは地球が与えた自分の役割。
つまりは自分の核に在る何か。
直感は脳が瞬時にたたき出すあなたの正解。
違和感は地球が与えたあなたのリスク回避能力。
私の人生は私のモノ。
あなたの人生はあなたのモノ。
地球が決めたあなたの役割。
自分を信じて、魂の声を聴いてみませんか。
今日も皆さんありがとう。
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