私は子供のころからペットを飼うという行為が大きらいでした。
同居していた義祖母が、犬を飼っていました。私たちと祖父母は一つ屋根の下にはいましたが、一階が祖父母の住居、二階が両親と私たちの住居となっていたため、その犬と触れ合うことはまずありませんでした。義祖母が自分の犬に私達が近づくのをひどく嫌がるため、その犬自体も私たちが傍を通りトイレに行くにも警戒して部屋を見張っているような、義祖母の言いつけに従順な犬でした。何年いたのか思い出せませんが、一度も触れ合ったことはありませんでした。その義祖母と犬の関係性が私から学びを奪っていたかもしれません。
子どもながらペットという形式は人間の傲慢さの表れのような気がして値段をつけて売られている命にとても違和感がありました。
ただ、母になり、子どもたちが金魚を飼いたい、亀を飼いたいと言うことについては、私の個人的な考えをおしつけることはできません。世話を最後まですることを約束して飼っていました。ただし、私は一切手伝いませんでした。
娘は植物も動物も赤ちゃんの頃から好きな子で、幼稚園でもアヒルの脚の裏がおかしくなるのはコンクリートの床のせいだと怒ったり、ウサギをみんなが触りすぎるからしんどくてかわいそうだなどと話していました。
フィジーに滞在した時、娘に現地の大型犬がなつくのも自然の流れだったのかもしれません。
「のどが渇いてるから水をあげなくちゃ」
とか、
「リードを外してほしがってる」
などと、まるで犬と話してるかのようで、私にはよくわかりませんでした。マングースの子どもがその犬たちに捕まり血だらけになって食べられている姿を、仕方ないと言って娘はじっと見ていました。
私は野生動物には興味はあったものの、人間に飼いならされた動物の気持ちがよくわからなかったのです。娘は飼っている亀にも話しかけていました。当時は、それで何が起こっているのか、私には想像もできませんでした。
動物科のある高校に入学した娘は、毎日友人たちと動物の話に花が咲き、楽しそうでした。そんなある日、ハムスターのケージが我が家に届いたのです。娘が注文した品でした。
仕方なく、一緒にペットショップにいき、二件にわけて雌雄のハムスターを連れ帰りました。綺麗に環境を整えてもらっているショップにいた雌と、劣悪な環境にぎゅうぎゅう詰めにおかれていた雄を『買った』ものの、値段がついていることに強烈な違和感をおぼえました。
娘が世話をする予定だったのです。もちろん。
私は掃除も何もする気もなく、とても迷惑な気持ちでした。娘は高校の養豚や養鶏の仕事があって夏休みも出勤?!します。必然的に私が彼らの掃除や餌やり、健康管理をすることになりました。
ところが、すぐにわかったのです。
雄の彼が人間を怖がっていること。雌の彼女が、自由に甘えてくること。
当初はハムスターの育て方をひととおり調べて、野生ならどんなところに生育しているのかも考えました。できることなら野生に返してあげたいと毎日考えていました。できる限り彼らの意思を尊重するように考えました。そうはいっても、こちらもマンション住まい、出来ることは限られているのですが。
二か月以上待ちました。掃除のときにコニーサンが自分で私の掌にのって外に出てくるようになるまで。毎回、私の手のひらを何度も噛んで、攻撃されないかどうかを確かめてから乗ってきていました。いまや、ほっぺを指でなでてもじっとしています。
今は部屋中を自由に走り回るので、こたつの中でひまわりの殻をたくさん発見することもあります。
自分の子どもたちが赤ちゃんのときと感覚は同じでした。3人も育てた後だから、彼らを理解するのは早かったかもしれません。言葉を交わせなくても彼らと意思疎通ができるのだとわかったのです。遅ればせながら。
彼らが人間でいう思春期に差し掛かると、みていてわかります。互いに興味を持ち始めて呼び合うように見えたので、ケージは別でしたが部屋で遊ぶのは一緒にしていました。そうしたら交尾したんです。嫌がるようなら離そうと思っていましたが、妊娠中も仲良くしていました。
そして彼らを見ていて改めて、赤ちゃんを自分都合で育てると恐ろしいと思いました。
親のエゴで育てられたら、赤ん坊はどんな大人に育つんだろうって。
我が家にいた犬は食事も義祖母と同じで炭水化物ばかりで、義祖母と同じく糖尿病になり、子宮がんでなくなりました。ペットというのはそういうものかと思っていました。服を着せられたり、芸を教えられたリ、サーカスの象となんらかわりなく見えて、とても不幸にみえていました。
(生まれたばかりのベイビーズ)
いまもその気持ちはかわりません。我が家のハムスターも、人間都合で生まれる前から売られることが決まっていたでしょう。消費者として私たちのように動物を『買う』人間がいる限り、そのシステムはなくなりません。
部屋中を安心して走り回り、私の脚の上に飛び乗り、甘えてくる彼らをみていると、もう野生では生きていけないとさすがの私にも理解できます。
交尾して子どもが8匹生まれました。彼らの遺伝子を私達の都合で『絶つ』べきなのか、自然に任せるべきなのか、家族でよく議論します。
ペットショップの箱の中に並ぶうつろな瞳をした犬たちや鳥やウサギをみて、助けたい気持ちとは反対に一切関わらない勇気が、この仕組みをなくしていくのかもしれないと考えるとジレンマに陥ります。
食べるために命をいただくことと、箱に入れたり紐で繋いで傍らに置くことは全く違うと思うのです。すでにこうなってしまっている現代において、何が正解かなんて決められないのですが、彼らをみていて愛しい反面、とてもとても人間がいやになります。
先月うまれたベイビーズ。彼らの半数は娘の友人が育てることになっています。いまはまだ8匹すべてをきちんと把握してさがしてるのが見受けられる母のココ。喧嘩しながらも共に生きるベイビー達。離すとしたら『巣立ち』の時期を見計らってでないとできません。
ココにもベイビーズにも悲しみを与えないように、時期さえ間違わずに離せば、本能でココは自分の子どもたちの巣立ちを受け入れるのではないかと考えています。
またストレスで母ハムが子ハムを食べると書いてある本などがありますが、人間側の対応を見直してみる方がいいかもしれません。確かに出産後ココのストレスは強く見受けられましたが、彼女の相手もいつもと変わらずしてあげて外で走らせるようにしていたら、私が子どもが寝ているケージの中を掃除しても、決してそのような殺気だった様子は感じられませんでした。もしかしたら、中には育たない子がいることをわかっていて、母親自らがその子を葬るのかもしれないし、自然死して腐敗したら、残った子どもたちの感染症などにつながるから食べてしまうこともあり得るのではと思います。
ココは傍若無人タイプですが、決して子を殺すようには見えません。生まれて何日かは温めるために自分が両手両足を踏ん張ったまま子どもたちに覆いかぶさって、あまり寝ていないようでした。
人間の勝手な目を通した動物の行動の分析はあまりあてにならないと思いました。彼らが本当は何を考え、どうしているのか、人間ごときにわかるはずもありません。わからないことはわからなくていいという諦めもこういうことには大切なのだと思います。
この年齢になって、彼らから学ぶことがたくさんあります。
- 人間が「母親の愛」を求めるのはやはり本能からきているのではないかということ
- 「巣立ち」を親が邪魔してはいけないのではないかということ
- 最終的には自立し、どんな環境でも生き抜く力を、誰しも持っているのではないかということ
- 大きさや立場によって優劣をつけない関係は、動物とでも可能だということ
- 何も教えなくても、本能でわかっていることが一番大切なんだということ
- 彼らは決して自分の命を粗末にしないということ
- 万物と愛し合えるのではないかということ
- そしてもしも、人間がそれを忘れてしまっているなら、進化しているのではなく、退化しているのではないかということ
これは私見です。私は動物の専門家でも、研究者でもありません。だれかのコピー&ペーストはしたくないので、自分の感じたままに書きました。ですから、専門家の方からは陳腐に思える表現があるかもしれないことを、お詫び申し上げます。
そしてこんなことを考えていたら、頭がよくなりすぎて退化していくあの話をふと思い出しました。私たちはもしかしたら、アルジャーノンになっているのかもしれませんね。
地球上の万物が対等に生きられる世界になりますように。
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