地球の中の自分という存在

ヒトの性質は生まれた時から変わらないと思います。それを産み出したのは地球かもしれないし宇宙かもしれません。
記憶を辿れば、いまもその景色が脳裏に浮かびます。

1歳の頃に感じた公園で出会った子への想い、テレビで観た原始人のアニメ、初めて入った幼稚園の教室、小学校の1年生の教室の前に佇んでいた自分、親と観た黒人奴隷の実話ドラマ、虐めを知っていながら無視し続けた小3の担任の表情、そしてフィジーのヤサワで撮影された無人島の映画、脳の快楽物質を出すためだけに子供の身体を触る男など・・・・・・

現在の自分の価値観と何ら乖離していません。見える景色は、今は無き実家、建て替える前の古い部屋。1歳の頃は一間のアパート、共同の洗濯場で必死に背伸びして母を覗いたガラス窓。まるで今この世からサヨナラするかのように鮮明に思い出されます。

無口で友人も少なかった私は、親にさえ自分の価値観を話さない子供時代を過ごしました。病弱な自分が、8歳のころにタクシーの中でたくさんの血の塊を吐いたこともその匂いも記憶しています。母はその時私が死ぬと思ったと言いましたが、私自身は死ぬ気はまったくありませんでした。歩くことも出来ずとてもしんどかったけれど、多分生物は自分が死ぬときには死ぬと分かる、もしくは死ぬと決めている(諦めた)のではないかと想像しています。

今思えば、その孤独な幼少期が独自の思想を育ててくれたのだと思います。寿命が短いと言われていたことも功を奏し、人生の目標やテーマを小学生時に決めるに至りました。

息子の事故の時も、三度の離婚も、数々の哀しみも乗り越えてこられたのはその時に決めたものが基軸にあったからです。生涯変えないようにと熟考して決めたため、その後何があっても再考する必要はありませんでした。世界が変わっても同じです。

同様に他者の性質も変わりません。やはり皆自分しか信じていないし、それが自然の摂理でもあります。もし自分の感覚より他人のお話を信じてしまうならば、もはや生物とは言えないかもしれません。

でも、生まれ持ったその性質が近しい人はいて、同様の遺伝情報を持った血族などには共通項を見出すことはできます。一応現在も同種と考えられている私たちニンゲン同士の中でも、その割合の多少はあっても共通する資質を持つ人と出会うことは可能だと思います。その生きるための指針という潜在的な共通項が多いほどに、仲間としては共生しやすく、付随する顕在的な才能を分かち合って相互扶助のできる平和的な群れをなせるのではないでしょうか。

潜在的基軸が真逆のニンゲンとは対立が絶えず、幸福感もありません。特に一方が他者の価値観を尊重せず自分に合わせるために暴力や監禁、虐待などに走れば、家庭は崩壊します。

広義ではゴキブリも私たちも同じ生物であり地球の仲間ですが、地球を受精卵と見立てるなら、生物それぞれは皮膚細胞と腸内細菌のように異なり、腸内細菌の中にも乳酸菌や大腸菌など役割が違うものが存在するということになります。大腸菌が乳酸菌を殴って支配しようとしても無理なのです。皮膚細胞が嫌いだから殺してしまおう!!となれば、地球という生命は死んでしまいます。

他者を変えようとか他生物をコントロールしようとか、ましてやニンゲンごときが地球を支配できるなどという幻想を持つよりも、与えられた生命の流れに添って共に生きるべき仲間と(他生物含む)前を向いて進んでいくことの方が賢明な気がします。

前を向いて行くというのは、自分の命の終わりに向かっていくということです。生まれたものは死にます。サピエンスもいずれ絶滅するでしょう。それも自然の摂理です。

栄華を極めたものは衰退する

衰退し続ける世界に生きているのが私たちなのかもしれません。とはいえ、死んだら体の構成元素はまた何かになって生まれ変わるのでしょう。そういった自然の流れを怖がっても仕方がなく、今日充実した一日を送り、大切な存在にめいいっぱい愛を出し切り、殺して自分の血肉にする万物に感謝し、ニンゲンの行いに涙するほうが幸福だと私は思います。

赤ん坊の頃を思い出してみてください。

生きることに哀しみや傷みはつきものですが、深呼吸して空を仰ぎ、地球に想いを馳せてみれば、シンプルな自分の指針も見えてくるかもしれません。

 

万物に愛を。

 

 

 

 

 

 

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