随筆 95

子どもは産まれてすぐ親をみる。または自分を育てる人を模倣する。

これだけ成熟した文化的な社会では、多くの人が手取り足取り教えてくれ、便利な道具もたくさんあり、もはや原人のように周囲を見てリスク回避をしなくても、一歩進んで自ら考える時間と余裕があるはずだ。

石器で何かを割り、火を使うことにも注意して獲物を追いかけていたような、生きることに必死で、いつ何にやられるかわからなかったような生活ではなく、家に入れば鍵をかけて、誰かの攻撃や食物の略奪の心配もなく眠ることができる。

だからこそ、日本のような文化的なシステムを創った人々は夜中まで勉強に時間を割いたり、生きることに必要のない物を産み出して仕事にしたり、過ぎた幸福の追求や食欲や、物欲や性欲にどっぷりと浸ることができるのだろう。

本来生きるとは、命をつないで子孫を遺すことで、食って寝て出して交尾してを繰り返し、子を守って次に繋ぐだけで事足りるはずである。現代のように誰かが創ったお話を信じる人々が、少しばかりの文句を言いながらも個々の幸せを追求し、その幸せの形まで議論している様は平和で豊かすぎて怖いくらいだ。

 

だけど人々は追いかけている。

欲しくて掴みたくて、いつもそのことを考えている。

 

就活しなくては。

学歴を得なくては。

資格を取らなければ。

お金を持たなくては。

他人に勝たなくては。

男に愛されなければ。

女にもてなければ。

若くいなければ。

〇〇を失わないよう独占しなくては。

 

それでは恐怖に苛まれる生涯になるだろう。せっかく考えることに時間を使える国に生まれたのに、考えずに誰かの模倣をするだけでは、いつも他人の動向に一喜一憂して気づけばもう年老いている。

シナリオライターが書いた、いろんなストーリーがあるけれど、個人的には人が創った話には興味がない。自分とは異なるライターが書いたファンタジーはやはりファンタジーで。自分のノンフィクションは自分で描きたいのだ。

生存競争において、勝つことは確かに大切だろう。しかし、時代によって価値のあるものは変化する。そろそろ、その「勝ち」の「価値」が異なるものに変化しているように視えるのは私だけなんだろうか……

 

今日も皆さんありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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