随筆 96

普段私達は無限にあるこの空間の平面的なごく僅かしか見ていない。

それによって、喜怒哀楽を表し、幸福感や焦燥感を覚えている。

何もかもを当たり前のように、何も考えずに流されて生きていくこともできるし、熟考した上で目の前のことを受け容れて生きていくこともできる。

自分に持てないものを死ぬまで欲しがり続け、虚栄のために他生物を喰らってエネルギーに転換させる人もいれば、粗食で食べすぎることもなくひっそりと暮らす人もいる。

自分の選択ミスの連続で不幸になった上に、他人任せで責任をどこに擦り付けるか考え続ける人もいれば、自分のミスを探して反省し、改善しながら生きる人もいる。

どちらが善で悪という話ではない。それは単なる生と死で、どこでどう生きても自由だ。

その一部の集まりが全体をつくり、バランスがとれている。だから今この世界はバランスがとれていると言える。絶滅危惧種なども、ある生物やニンゲンが増えすぎるから他の生物が絶滅していくのではないだろうか。

バランスのとり方は一つではないから、変化させることは可能だと思う。その一部が壊れ始めると、当然全体の均衡を保つために、エネルギーは働き始める。

 

国という境界線はどこにもない。しかし、同じ決めごとを信じ込んでいるニンゲンの集団と捉えるなら、それを一つの集合体と視ることはできる。それらに影響されその土地で崇められる生物もいれば、残虐に殺戮されていく生物もいる。

一つの集合体の生き物が眉間にシワを寄せて疑心暗鬼で生きているからといって、別の国の生き物がそうだとは限らない。

全体でバランスはとれている。

 

引き寄せなる言葉を使うとして、それは個々の捉え方による。何に着目しているかで概念は大きく変化する。

ニンゲンに重きをおいている人は、そこに引き寄せたという感覚をもつだろうし、金に重きを置いている人はそこに引き寄せたという感覚をもつ。価値を置くものが、万物ならば、文字どおり対象がニンゲンでもゴキブリでもホコリでも草でも同じだ。

私は土地に惹かれる。土地が内包する水や土や空気、それに昆虫や植物などの生き物と同じ価値でニンゲンも在る。

心地よい地球上の「点」には、やはり心地よい人や生物が存在している。誰に強制させられることでもないから、自由に行き来させてほしい。

縁のない人はその土地には行かない。

 

意識というのは面白いもので、引き寄せと考えるなら、支配欲を満たすために生きているニンゲンたちのもとには、自分で考えることができない人がたくさん集まって、きちんと支配欲を満たしてくれるはずだ。

ある生物を無理矢理閉じ込めるような手法をとった場合、それに対しての負のエネルギーはどうやって対象者に循環するのだろう?本人でなくても子孫や、種全般に還る可能性もあり、ひいては、星に還る可能性もあるかもしれない。

世界のエネルギーバランスが均衡に保たれているとするなら、残酷に殺戮されていく動物を好んで身体に取り込んだ場合、その人が病になるなどして、きちんと彼らの負の想いが相殺されているのかもしれない。

こんな視点で世の中を見ているといつも疑問に思うことがある。意識は単なる電気信号だとしたなら、誰がどうやってこの星を確認するのか?

見たこともないものをあると信じれば、簡単にそれはその人の世界に存在することが可能になる。

そんな不確かなものに対して、一喜一憂している様はファンタジー以外の何物でもなく、引き寄せとは、単に自分の創作したファンタジーのことだとも思えるのである。

そして、その個々の発するエネルギーによって自分も誰かの影響を受けていて、互いが複雑に絡み合っているようなイメージが世界であって……

 

祖母が黒い蝶になって現れたあれは、私のファンタジー力の結晶だろう。

息子が歩いたあれも、ファンタジー力の結晶ということだ。

なので、この世は無ではないかと考えてみる。

些細なことで怒ったり、他人の動向に一喜一憂したりできる人はとても幸せだ。

喜怒哀楽という感情は、ある特定の範囲内で生きている人にしか産まれないものだ。だから、喜怒哀楽を感じ続けられることは人間らしさとも言えるし、幸福の証なのではないかと思う。

 

 

今日も皆さんありがとう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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