様々な形で現れる出逢い。
今日もまた引き寄せに感激した。
引き寄せの法則なんていうものは、単に自分が持つ周波数に同調するものが現れるだけのことで難しいものでも何でもない。
フローな状態で引き寄せるのが最も自分に合っているもので、計算して手に入れる出逢いには違和感をともなう。
田舎に来て知人友人と会わなくなり、パーティーにも研究会にも滅多に行かず、自己完結の為に大半の時間を費やす私の今の出会いはもっぱら書物となる。
知識を得るために嫌いな分野の本を購入すると、読んでいる間中気分が良くない。
本自体も暗く感じる。
読破してもニンゲンが醜いと感じることが殆どだ。
でも、書店に一冊しかない聞いたことも見たこともない本を手に取って内容も金額も確認せずに購入する時や、インターネットで気になって言葉を検索したときに偶然目に付いた本を即決買いするときは、送られてきた書籍が光って見える。
今日も往復8キロの買い物の途中、一服がてら座ったベンチで、鞄にしのばせておいた本を数ページだけ読んだ。
今朝届いたばかりのその本の数ページで、自分の思い込みに気づく。
その考察は輝くばかりの世界だった。
私は余程でない限り小説は読まない主義。
ジャーナリストのノンフィクションや、プロアマチュアどちらでも研究者が書いたものが好きなようだ。(インスピレーションで買うとそうなる)
原書が何語であっても、日本は日本語に訳してくれているものが多くて有難い。
他国では良書に出会うも英語のものが殆どだと聞く。
原文とニュアンスは多少違っているとは思うが、そこは全体像から作者の意図する想いを感じ取りたい。
同じ周波数を持つ人々が知らず知らずにチームとなってその本となり、私の手元に届いたのだと思うことにしている。
著者、出版社、訳者、写真家、スポンサーなど、多くの人が関与していることだろう。
雑音が少なくなり、独りで考えることが多くなったからか、座る暇もないくらい仕事は山積みなのに引き寄せる力は強くなった。
何となく選んだ書籍にはずれがない。
知識を得る為に買った本は処分しても惜しくないが、引き寄せた本は全てが宝の様なもの。
顔も合わせたことがないし、もはや相手はこの世に存在しない場合でも、私にとっては素晴らしい出会い。
仲間のような感覚を覚える。
だから誰かが『おすすめ』だという本を購入しても、その人にとって輝く出逢いになるとは思えない。
自分の引き寄せる周波数はやはりその人だけのもので、誰かと同じではない。
何でも同じ。
私がブレンドした精油で功を奏す人もいれば、何にも変わらない人もいる。
だからレシピだけ聞いて真似したところで同じことが起こるわけがない。
料理も同じ。
自分で土を見ながら育てた私のレシピと、店で買ってきた「同じように視えるもの」で作った料理が同じ味になることはない。
愛はレセプターのある人しか受け取れない。
どんなに愛をかけても見ない聞かない感じない人は存在する。
だから個体差ってあるのだと思う。
その人が何を想い生きてきたか、生きているか。
周波数が合わない限り、仲間にはなれない。
数ではなく質だ。
出会う人とは出会う。
でもある団体と団体の出会いは、その中の一人と一人の強い引き寄せの場合もあるだろう。
事実、特定の数人以外の他のメンバーたちは数年後には付き合いも無くなっていたりするものだ。
いまは土地がら高齢者の方と話すことが多い。
相手が父や母の様な年齢でも、出会うことは決まっていたのかもしれない。
都会のマンションで階下の高齢者はうちのベランダの水が土で濁っていることに何度もクレームをつけたけど
この村の人々はリンジーやボサノバの鳴き声も懐かしいと言ってくれる。
殆どの人が庭で植物を育てていて、鍬を担いで歩いて畑に行く私に
「あんたはよう頑張ってるな~」
と笑顔で和菓子を持ってきてくれる。
昨日は筍、その前日にはとれたての蕨をもらった。
都会に居たら高級品。
おかげでいつも手作りの豊かな食卓になる。
仲良くしているご夫婦が何組かいるが、多分、私とあちらのどなたか、もしくは同居人や娘とあちらのどなたかの引き寄せだろう。
時間が経つほどに、それが誰と誰の引き寄せだったかが明確になる。
無理矢理付き合っていてもいずれ相手はいなくなる。
植物とだって出会いの一つなのだ。
ニンゲンに品種改良された野菜は、遺伝子を組み替えられた人間と同じようなものにみえる。
原種はどうだったか私は知らないが、『改良』されても必死で生きている命を讃えたい。
自然な農業なんてもはやないと思うけど、人間がいなくなって彼らが野生化したらどんな野菜が生き残っているだろう。
そんな風に地球の循環とニンゲンの所業に想いを馳せながら、畑に座って植物たちを眺めてみよう。
今日も皆さんありがとう。
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