私は子供のころからずっと無駄遣いが好きではありません。
それは一般的なお金の無駄遣いではなく、命の時間の無駄遣いです。
ですが、人は往々にして驕り高ぶり失敗し、気づいてもなかなか軌道修正できないものです。
ただ、それを修業と捉え、無駄にしない方向へ転換したなら、過去に出会ったすべての魂や自分の費やしたエネルギーも、無駄にならずに涅槃に逝くことが出来るはず。
毎日いただく食事もそうです。
一生動くことの出来ないケージの中であの美しい鶏たちが産まされた卵や、ニンゲンには価値もないとあっさり殺される雄たちの肉。
生涯大好きな土を触ることもなく半年で殺される豚や、虐待される牛たちを喰らうなら、せめてそれに恥じない生き方をしなくては彼らの命が無駄になります。
決してグラム売りで買えるようなものではないはずなのです。
昆虫だから軽くて哺乳類だから重い命だという事もないでしょう。
その命を受け取って血肉にするなら、魂を昇華させてあげなくてはなりません。
万物の恵みにあやかるという事は、覚悟が伴うのです。
人間だけに限った視野の狭い価値観は真実を限りなく歪めていきます。
私たちは生きている以上、万物の命と共に在ります。
邪魔をせずにそっとしておかなくてはならない彼らの縄張りもあるでしょう。
自分のモノであっても自分のモノではない山や土地、つまり樹々や植物、微生物や菌類に至るまで、
そこに生きる万物を守り、手助けをする管理人みたいなものが名義人だと思います。
どんな人も何かしらこの地球に関与して生きて逝きます。
自分だけでなく自分が出会った人や万物も、自分の中を通って逝く魂であり、そのおかげで今があるわけです。
今地球上で見知らぬ人が亡くなったとして、自分と全く無縁ではありません。
だからその哀しみは、祈りという形で距離を越えて届けることができます。
今まで、安全に食べ物を手に入れ子さえ守り育てられたことは、当たり前ではなく、誰かの働きや多くの犠牲が背景にあった感謝すべき恵みです。
今生きている人々は、それを忘れることなく、空を仰ぎ風を感じてどう生きるべきかを考え直さなくてはならないような気がしています。
もちろん、私自身への自戒でもあります。
そろそろ、自分の仕事に戻りたいと思います。
今日も皆さんありがとう。
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