肌が気温を記憶していたり、風を記憶していたりする。
すると瞬時に『あの時』に戻る。
初めて渡った海外、それも娘を連れてPCも持っていなかった頃。
たった半年ラジオで勉強しただけの英語。
無謀だ(笑)
でもそれがワクワクの源。
降り立った空港の、湿気を含んだ熱い空気と海の匂い。
それが懐かしくて、4度渡航し、各1か月滞在した。
初めて行ったのが大阪の11月、帰国は12月の関空。
だから、その気温になるとマンションからスーツケースを牽いて地下鉄の駅に向かいたくなる。
今は山の谷間にいて、空港も新幹線の駅も何時間もかけて行かなくてはいけないのに。
大学生と共に東南アジア4か国をバックパッカーとして周ったこともある。
出国したのは1月の関空。
まだ1月にもならないのに、此処の気温が大阪の1月をとっくに下回っているので、11月から東南アジアに行きたくて仕方ない。
初日に空港で意気投合し、タクシー代を割り勘した韓国人女性。
私が交渉したゲストハウスに彼女も泊まることになった。
荷物を置いて夜のカオサンロードに繰り出す。
私は迷わず、屋台のバッタを食べた(笑)
翌日の朝は、近くのカフェでモーニング・・・・・・のはずが、物売りが入って来て、
「サソリ要らないか?」
結構高かったけど、サソリ1匹買ってみた。
パートナーの大学生には頭を、私はしっぽ側を食べた。
ボディは半分こ。
タイでは詐欺に騙されてあちこち連れて行かれたけど、途中で気付いて何も買わされずにタクシーでゲストハウスまで帰った。
でも結局タクシー代はぼったくられた。
カンボジアでは、市場のおばさんが炒めて売ってる『芋虫』を。
訊けば現地の人のおやつだとか。
トマト缶いっぱいで一人分。無理無理!!(笑)
「Half portion prease」
それでもかなりの数だった芋虫。
5匹は頑張って食べてみたけど、それ以上は流石に無理で、トゥクトゥクに乗ってた運転手の子供にあげた。
町の中心部にあるツアー会社に、こっちで決めたルートで無茶なツアーを御願いした。
クメール語しか通じない場所も多いため、日本語が出来るガイドも雇った。
あのジェノサイドの場所に立った時、二人とも頭が凄く痛くなった。
生き残った人の顛末が英語で書かれていてすべて読んだ。
恐怖と嫉みは殺意に繋がる。
幼児期から考えてきたように、ニンゲンはやはり地球上で最たる馬鹿だと確信した。
ガイドとタクシー運転手と共に、見学先の小学校の前のレストランに入った。
「一緒に食べましょう」
とテーブルを囲み、私たちで彼女らの分も支払った。
「日本人で初めてだ」
と彼女は言った。
食事はいつも外で待つか、自分たちは一番質素なモノで済ませ、分けてもらうこともなかったらしい。
ローカルレストランだったので私たちからすればかなり安い。
外で待たせるのもしのびないし、裕福でない彼らが安易に外食することもないのは見ればわかった。
せっかく一日行動を共にするのだから、食事も一緒に摂りたかった。
するとガイドの彼女は、日本人観光客について様々なことを教えてくれた。
また、かつてのジェノサイドで、今も何が起こるか分からない不安があることなども話してくれた。
だけど、この国の人たちは優しかった。
宿泊先の下の食堂で働く若い彼らは、毎朝出かける私の名前を読んで手を振ってくれた。
スラムを一人で歩いたときも、私には誰も何も言わずに通してくれた。
4か国を周りながら、屋台やローカルレストランで食事をする。
氷が入ったものは食べてはいけないとガイドブックには書いてあるけど、ベトナムでは屋台の珈琲プリン(たっぷり氷入り)を食べた。
でも一度もお腹を下したことはない。
行動を共にしていた大学生はずっと調子が悪かったようで、彼が食べた辛い料理のせいかと思っていたが、どうも屋台の食が原因なのだとわかったのは、何年も経ってから(笑)
私が大丈夫でも同行する人はいつも調子が良くない。
今後は気を付けないと(笑)
アフリカには一人で発った。
息子が住んでいたのでそこを目指して。
搭乗口まで歩く時、すでに家族のことは頭から消えている。
初めてのアフリカの大地。
ワクワクと緊張感。
途中エチオピアで乗り継ぐとき、空港が日本やタイ、仁川などと違って簡易すぎる上に、時間どおりに発着しない。
英語もよく聞き取れず、迷っていた。
すると
「日本の方ですか?」
と声をかけてきた女性がいた。
紛争地のチャドで仕事をしているとか。
私が訪れる国はまだまだ安全な方だと教えてくれた。
その人が時刻を教えてくれ、無事、目的地にたどり着いた。
空港でタクシーの運転手が待ち構えていた。
かなりぼったくられるときいていたので、現地に息子が仕事で住んでいること、その仕事の内容、そして空港から目的地までの道順と距離を伝えた。
すると、息子に電話すると言って連絡を取ってくれ、今から母親を連れて行くと伝えてくれた。
結果、金額も現地人と同じ。
息子と合流できた。
そこからは現地の人しか乗らない乗り合いバスのようなものに乗り換えて家に向かった。
この国は二度訪れた。
(現地での体験談をシリーズで書いているのでサイトマップをご参考に)
初日から凄い体験をした(笑)
でも、あの電気ガス水道のない村の暮らしは、かつて環境学の講義を受けていた時にきいた『持続可能な生活』そのものだった。
「やっぱりね、やっぱりね」
机上の空論が嫌いな私は、実際に行って確かめてきたことがたくさんある。
途上国での暮らしは、本やテレビと違って、やはり自分の想像通りだった。
動物も多頭飼いでしかわからないことがある。
事典や医者は必ずしも正解ではない。
一魂に向き合う謙虚さが、真実に近づけてくれる。
この冷たい風に乗って、買った家も放り出して、また途上国に行きたい。
そして二度と帰ってきたくない。
それを引き止めるのはエンジェルであり、アンディであり、ソフィやピティ達。
ニンゲンではない。
今日も皆さんありがとう。
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