究極の愛

個人を徹底的に認めて、自分のものとしない。

好きでも触らない。

道が違っても認める。

 

究極の愛とは何もしないこと

 

誰も誰かを支配できないし、誰かを自分のモノにはできない。

たとえ、相手が死のうが、何かを強制する権利など誰にもない。

 

現に母は私とは全く異なる物を信じ、世界の見え方も違っていて、私なら決してしない選択を続けて死んだ。

「ああ、来週までもつかな」

と母の笑顔を見て感じていたけど、母が決めたことを否定しなかった。

 

信じる世界はひとそれぞれ。

正しい間違いも人それぞれ。

この世に誰かに何かを押し付けることができるような人間は一人もいない。

 

他生物や途上国民の犠牲の上になり立つ自分の生活。

システムの中では正解というのかもしれないけど、その前提条件は

「地球の中で人間だけが信じているもの、それも国境という線で囲まれた中においてのみを正解とするなら」

というものである。

 

他国にいけば全く違う。

子どもが出来ても育てたくない男は逃げるし、誰も訴えない。

自分が欲しいものが近所の玄関に在れば無断で拝借する。

給食費が払えない家庭の分を、裕福な家庭が黙って肩代わりする。

先生が家を借りて孤児を数人住まわせる。食事は豊作の農家から。

南太平洋ではノニが奇跡の植物と言われるけど、アフリカではモリンガがそうだという。

身土不二とはよく言ったもので、その土地にはその土地に必要なものを地球が用意してくれているわけだ。

 

これが私が視てきた他国である。

 

途上国においても個人においても、当人が選択し続けた結果で『現在』を生きているのに、これがいいだのあれがいいだのと言ってしまうなら、それはお節介というものだ。

もちろん、私情が入りすぎて、「一緒に○○したい」という気持ちは湧いてくる。

だけど、ここまできて感じるのは、自分の価値観など誰とも一致しないと言う事だけだ。

生れてから死ぬまで独り。

 

全員独り。

時に誰かと何かを共有したくなるけど、多分死ぬまで誰にも通じない。

道が違ってもOK

誰と生きてもOK

 

地球が与えた役割が自分なのだから、それぞれ、全て自己責任で終わるしかない。

そう、終るのだ。

 

生れた時から必ず終わりに向かっている。

哀しくてもサヨナラ。

愛していてもサヨナラ。

 

YESMANという映画があったが、出来る限り地球が自分に組み込んだ流れに沿って生きて逝きたいと思う。

それが生命を与えた過去すべての万物に対しての責任。

 

つまりは自分以外のニンゲンの話は全てファンタジー。

 

 

今日も皆さんありがとう。

 

Pocket

0 comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です