土と循環

今日は雨。

レイズドベッド、うちの山に入って同居人が腐葉土とってくるも、よくある外用の大きなゴミ箱に3杯でも土がいっぱいにならず。

私も、切った木を素手で折ってベースにしていたら、気づかぬうちに手から血(笑)よくあります。

半分弱埋まったでしょうか。あと2つは作る予定なので、まだまだかかりそうです。

昨日も借りている方の畑に行ったので、土を運んで来ようと思ったのですが、相当な面積を2時間半かけて手鎌で雑草を刈っていくとシャツまで汗だくで、駐車場まで土をたくさん入れて(外用ゴミ箱に)抱えていく体力が残っていませんでした。(笑)

4年間、耕作放棄地から肥えた土を育ててきたのですが、あの土の中にはもういないシェリーやパディの堆肥だけでなく、今いる彼らの堆肥がたくさん入っているので、彼らが育てた土なんですよね。

そこで彼らの為に野菜を育ててエネルギー値の高い「小さな」野菜が生まれてくるなんて、素晴らしい循環です。

動物と植物(土)とは、共に生きてみるべきだと私は思っています。地球の循環をダイレクトに感じることが出来るからです。

 

レイチェルカーソンが描いた「センスオブワンダー」は子供を育てるうえで大切なだけでなく、現代の大人たちにとっても大切ではないでしょうか。

彼女が描いた「沈黙の春」も古典のように言われますが、私の独学環境学の発端はあの本です。なぜ学校でこれを教えないのか?と憤りを感じました。

図書館の環境問題のコーナーを網羅して、なるべく批判的意見の本も合わせて読むようにしました。

自分の「好き」なものだけでなく反対意見も聞いてみると、世界の見方に於いて、善が悪になったり悪が善になったりする仕組みがよく分かります。

最終的に選択するのは「自分が好きな方」なのですが、ニンゲンは誰しもファンタジーを創っているのだということもよくわかります。

書いていることが事実だとしてもin vitroの世界と実際の生物の世界が同じだとは限りません。

ニンゲンにこれだけ個体差があることは周知の事実で、個体差における事実を「間違っている」と判断できる天才はニンゲンにも他生物にも存在しないでしょう。

 

「人間ごときに人間のことなどわからない」と思っていたあの頃の自分の価値観が変わらず大人になったおかげで、小学生時に決めた人生の目的を遂行することが出来ています。

結果「奇跡は準備ができた者にだけ訪れる」のようなことが起きたわけですが、ある意味それは、自分が地球上の単なる生物だと徹底的に自覚した時にしか起こり得ないことなのです。

私に育てられた息子には、それがきちんと伝わっていたのかもしれません。

 

人間である自分が馬鹿だと真に自覚するから学び続けることが出来ますし、謙虚になれます。

ベランダで育てた100種の植物や齧歯目のコニーサン達に与えられた叡智は勉強以上のものでした。なのでとても感謝していますし、畏敬の念もあります。

短期的にお試しでやるのと、継続して生命と対峙することでは見える世界が異なります。

山に入れば、山に生きてきた方に敬意をもち、畑にいるならずっと畑にいた方に敬意をもって傾聴することが大切だと思います。

 

心臓から脳に指令を出しているという理論を唱えている方々がいるようです。もしかすると、「胸がいっぱいになる」とか「心が泣いている」などの感覚は心臓なのかもしれませんね。

きっと私たちはまだまだ何もわかっていないのでしょう。

今日も皆さんありがとう

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